新約聖書を紐解くと、最初にクリスマスの出来事から、特にヨセフという一人の男性の苦悩から始まります。婚約していたマリアと一緒になる前に、彼女が身籠っているという噂を彼は耳にしたのです。密かに離縁しようかと悩むヨセフに天使が夢の中で現れ、「恐れるな」と告げました。そこでヨセフは妻マリアを迎え入れ、イエスさまが生まれます。
しかしそれで万事が解決したではありません。その後、当時ユダヤを治めていたヘロデ大王により、イエスさまの家族はエジプトへ避難せざるを得なくなります。「恐れるな」と言われても恐れずにはいられない状況が続き、その困難立ち向かって連戦連勝というわけにはいかないのです。
私たちは自分たちが順境にいれば「恐れない」で堂々と生きていけると思います。しかし聖書が私たちに「恐れるな」と言う時、順境が約束されているわけではないのです。相変わらず逆境にあるかもしれない。しかしその逆境にあっても、私があなたと共にいる。だから「恐れるな」と私たちは教えられているのです。
コリントの信徒への手紙一10章13節では次のように言われています。「あなたがたを襲った試練で、世の常でないものはありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えてくださいます。」。大変有名な聖句で、多くの信仰者がこの言葉に慰められ、励まされてきました。私が教えている中高生たちも、この聖句が好きだという生徒が沢山います。常に困難に負けるな、めげるな、立ち向かえという世の風潮に対し、聖書は逃げることを否定しないです。イエスさまも生涯の始めは逃げる事から始まりましたし、ヤコブモーセもダビデもその生涯の様々な場面で敵から逃げることがありました。いつも無敗を誇ったのではありません。しかし敗北の憂き目に遭い、逃避行を余儀なくされていた時にも、神さまは共にいてくださるのです。「恐れるな」とは、逆境を否定していません。しかしどんな逆境にあっても神が共にいてくださることを私たちに教えてくれています。
そして聖書において逃げることは、ただ逃げっぱなしであることを意味していません。ヤコブがエジプトに逃げた時、かえって彼の家族はその数を増やしました。エジプトにおいてこそ、一つの民族に数えられるようになったのです。モーセも逃げた先で召命を与えられ、ダビデも逃避行の中で主への信頼を深めていきました。逃げることはただ困難を避けることではなく、より相応しい時に本来の歩みを始めるためのひとときです。
イエスさまもエジプトへ逃げた後、ナザレに戻り、その生涯を始められます。そしてその生涯の中で、幾度か回り道を歩き、怒れる群衆を回避したこともありました。しかし最後には誰もが回避したいと願うであろう十字架へと至る道を進んでいかれます。
私たちの生涯でも、様々な時があり、逃げたと思うような場合もあります。しかし最も弱っている時にこそ、主は共にいてくださいます。そして新しい力を得て、私たちは本来歩むべき道へと戻るのです。逃げて終わるのではなく、逃げることから始められるのです
中村恵太